第26回名作劇場 読書会開催レポート ~『崩れゆく絆』アチェベ ~
課題図書:『崩れゆく絆』チヌア・アチェベ

【第26回名作劇場 読書会開催レポート 】
2019年9月21日(土)14時45分~17時00分 @ IMANO TOKYO GINZA CAFE
『崩れゆく絆』チヌア・アチェベ
1958年、アチェベが28歳のときに発表。
― 古くからの呪術や慣習が根づく大地で、黙々と畑を耕し、獰猛に戦い、一代で名声と財産を築いた男オコンクウォ。しかし彼の誇りと、村の人々の生活を蝕み始めたのは、凶作でも戦争でもなく、新しい宗教の形で忍び寄る欧州の植民地支配だった。「アフリカ文学の父」の最高傑作。 ―
9月はアチェベの『崩れゆく絆』を課題図書に、読書会を開催しました。
以前、参加者の方からおススメいただいた本作は、私にとってはじめてのアフリカ文学との出会いでした!
おかげで未開の地を踏み進むようなザワつく読書体験ができました。
※※ 以下、ネタバレを含みますのでご注意ください ※※
(光文社古典新訳文庫 粟飯原文子 訳(初版第1刷)から引用)
■ 主人公オコンクウォ ■
自由人な父親のせいで、弱さや優しさを極端に嫌う主人公オコンクウォ。
やや拗らせ気味の主人公について、みなさんからは次のような意見が出ました。
・感情のコントロールができない人間
・一貫してオコンクウォの怒りを感じた
・弱さを否定する弱さ
・父親のようになりたくないという強迫観念、父親の呪縛
・なのに結局は父と同じ不名誉な死を迎えてしまう悲劇
・村のシステムに馴染めなかったから「個」で生きたオコンクウォは、父親と真逆なようで、「個」で生きた点で似ている
・娘エズィンマが巫女に連れていかれたくだりは、オコンクウォの優しさや家族愛を描きたかったのだと思う
・エズィンマが心配なのに、「男がとるべき時間」を置いてやきもきしてるオコンクウォは可愛い(笑)
・体裁を保つためイケメフナを殺してしまった。かわいそうな男。
・不器用な男。それがオコンクウォ。
印象的な場面として、オコンクウォが平和週間に第三夫人に暴力をふるい禁忌を破るくだりが挙がり、「罰を受けても当人は反省していないようで、つまり彼は、慣習の枠の中で生きているけれども、それを尊重しているわけではない」という意見が出ました。
たしかにオコンクウォは村の掟をたびたび破っていて、調和を重んじる村社会から外れているような描写が目立ちます。
話術が重視されるイボ社会において、口下手であるという欠点も、オコンクウォが村に完全に馴染むことができない人間であることを示しているようにも思えます。
オコンクウォは結局、イボ社会でも白人社会でも生きづらい人間だったのかと思うとなんだか切ない…
個人的に、第一部と第二部で描かれるオコンクウォの極端な「男性性」に嫌悪感を抱いていました。 文化や時代は違えど弱い者への暴力は許せない!とムカムカしながら読んでいたのですが、第三部で追いつめられるオコンクウォの姿に気づけば同情と共感が起こり、「もう、ひとりで暴れちゃえ!」と焚きつけたくなりました…! あれほど強さを誇示していたオコンクウォが闘うことすらできなかったことが、たまらなく悲しかったです。
■ 日本との類似点 ■
日本とはかけ離れたアフリカ文化なのですが、読んでいて不思議と懐かしさを感じることがあり、みなさんの意見を聞いて、かつての日本との類似点に気がつくことができました。 ・農業が中心の農耕文化=力仕事を担う男性社会となり、男尊女卑の文化となっている ・天候が暮らしを左右し、天候や自然が信仰と結びついている ・巫女のお告げ ・〈作物の王であるヤム芋は、実に手間のかかる王である〉(62頁)という文章から、イネ(お米)を連想した
■ things fall apart ■
家族や同胞、村のコミュニティ、価値観、信仰…、先祖が守り伝えてきたウムオフィアの日常が猛スピードで崩壊し、原題の“ things fall apart ”が表すとおり、「すべてが崩れゆく」のを私たちは目の当たりにします。
作中で描かれているのは、ウムオフィア社会の崩壊だけでなく、ひとつの時代の終わり。
アチェベは、アフリカ諸国の独立期である1950年代に本作を執筆しました。本作で描かれているのは、イギリスの植民地支配が始まる直前の19世紀後半のナイジェリアです。
アフリカ独立前夜に、あえて植民地支配が始まった激動の時代を描いたのは、変わりゆく時代を前にして、希望だけではなく不安や恐怖を感じ、時代の変わり目で引き裂かれたかつての絆を忘れてはいけないという思いがあったからではないでしょうか。
そして、ウムオフィア村の旧世界とキリスト教到来による新世界の衝突を軸にしているようで、アチェベが描きたかったのはもっと普遍的なことのような気がします。
みなさんからも、
・壮大なようで、実はひとりの男の人生を描いた作品
・大きさの違いはあるけれど、家族間の絆や他者との関係といった普遍的な人間の在り方が描かれている
・家族間、世代間の確執といった現代の私たちにも通ずることが巧みに描かれている
と言った意見が出ました。
■ 旧世界と新世界 ■
キリスト教の到来は、ウムオフィア社会の崩壊を招く要因になりましたが、旧社会で虐げられていた人びとにとっては救いとなりました。また、キリスト教によって、椰子油や椰子の実が高値の商品となり村にお金が入ったり、教育や医療が持ち込まれるといった恩恵を受けたのも事実です。
アチェベは、単に古き良き旧世界を賛美しているわけでも、文明が発達した新世界を賛美しているわけでもなく、それぞれの光と闇をきちんと描いているように思います。
・ウムオフィア社会は、西洋科学と照らし合わせると不合理な点が多々あるけど、それをただ野蛮だと切り捨てていいものではない。
・土着信仰とキリスト教の衝突という点では、先住民が「悪霊の森」と恐れる場所に宣教師が教会を建て、平然としている描写が面白かったが、伝統がすたれるさまを読んで痛快になったわけではなく、むしろ、「この調子で古い慣習の一切が否定されてはならない」と、危惧を感じた。
・「双子は森に捨てる」という慣習は廃止すべきだけれども、「悪霊の森を畏れる気持ち」は受け継いでもらいたいと思った。ただしその際、「悪霊の森を畏れる気持ち」が、差別や偏見を引き起こすリスクにも目を向け続けてほしい。でも、それによって「森を畏れる気持ち」が形骸化したら悲しい……。
■ 結末について ■
最後に、この結末をどう思ったかをみなさんに聞きました。
オコンクウォの最期については、ミステリー要素のある読み方をされた方もいて面白かったです。
・オコンクウォの死は、単なるひとりの男の死ではなく、ひとつの時代、ひとつの文化の終焉を表しているようで、やり場のない喪失感に襲われた
・映画にならない現実を描きたかったのでは
・こうして「文明化」という言葉ひとつで細部は省略され、たくさんの村が消えてきたのだろう
・オコンクウォの居場所が無くなっちゃったな
・ひとりぼっちになってしまった悲しみ
・呪縛からの解放。ようやく楽になれたのかも
・オコンクウォの自殺はネガティヴな悲劇ではなく、生きるための選択だった
・本当に自殺だったのか?白人との戦争にならないよう、近しい人(友人オビエリカ!)、または村の有力者に殺されたのかも?!
◆◆◆ 参加者イチオシの一文 ◆◆◆
* ンナディはひとりぼっちで料理して食べている。
(略)きっとンナディという人は、イケメフナのお気に入りの物語に出てくるあの場所、蟻が見事な王宮を構え、砂が永遠に踊り続けるという場所に暮らしているにちがいないと考えたのだった。(65頁)
― ンナディは、現代で自由に1人で暮らす自分のことのように思えた。個がより自分らしく生きられる今の環境を尊いと思った。
* 太鼓の音はずっと同じ調子で鳴り響いていた。この音は村とは切っても切れないもの。まるで村の心臓が鼓動しているようだ。大気のなか、日の光のなか、木々のなかにさえも脈打ち、村を熱気で包み込む。(77頁)
― 太鼓の音は、言葉でありエネルギーであり、村の人びとに刻まれたリズム。ときに陽気にときに不穏に、読んでいる間、太鼓の音が聞こえてくるようだった。第一部で描かれる村の生活がエネルギーに満ち溢れていて、だからこそ、この結末に猛烈な喪失感に襲われた。
* 「父さん、ぼく、殺される!」イケメフナがそう叫んで、駆け寄ってきた。オコンクウォは恐怖のあまり呆然となり、自ら鉈を抜いてイケメフナに切り付けた。 (101頁)
― オコンクウォのどうしようもなさや、物語の悲劇性に何ともいえない気持ちになった。情景が思い浮かんだ。
* 虹は空のニシキヘビと呼ばれた。(249頁)
― 241~242頁にかけて、ニシキヘビは「地上」において「われらの父」と呼ばれ崇められている。249頁では、虹は「空」において「母と娘」として表現されている。同じ水の神を逆のもので表している表現力が好き。また、虹は雨季と乾季の架け橋のようにも感じた。
* 一族から離れていた七年は、実に長いものだった。自分の地位がずっとそこにあり、待っていてくれるとは限らない。去る者がいれば、またべつの者が台頭してその穴を埋める。一族とはトカゲのようなもの。しっぽを失っても、また新しいしっぽが生えてくる。(256頁)
― 第3部の冒頭です。ありがちな文章ですが、オコンクウォの心情をおもんぱかって読むと、胸に迫ってきます。
* 「白人ときたら、まったくずる賢いやつらだよ。宗教をひっさげて、静かに、平和的にやって来た。(略)しかしいまじゃ、同胞をかっさらわれ、もはやひとつに結束できない。白人はわれわれを固く結びつけていたものにナイフを入れ、一族はばらばらになってしまった」(264頁)
― ウムオフィアの状況を的確に説明した一文。物事や何でも、崩壊の道すじってこうなのかなと思いました。
* 彼には、ウムオフィアが戦争に打って出ないとわかっていた。人びとは残りの連中を逃がしてしまったのだ。行動を起こすどころか、慌てふためき大混乱に陥っていた。この騒動のなかに恐怖が漂うのを感じた。そしてこんな声が聞こえてきた。「なんでこんなことやっちまったんだ」 オコンクウォは砂で鉈を拭い、その場を後にした。(305頁)
― すごくオコンクウォの孤独を感じました。彼がやってしまった行為には私怨も多分に絡んでいたと思いますが、それも含めて彼が自分の民族を大切に思っていたのは事実で、その為に彼は異物と戦う決意があったのだと思います。それ故に自分の周りの、自分とは相対する姿勢への失望と孤独感は誰よりも強かったのかと思いました。
* そしてこんな声が聞こえてきた。「なんでこんなことやっちまったんだ」(305頁)
― この声は本当に発せられたのだろうか?我々も普段、このような声が聞こえてくることはないだろうか?と考えさせられた。
最後に… 読書会ではキリスト教についてもさまざまな意見が出たのですが、キリスト教を語るには私の知識があまりに足りず上手く書けそうにないので、ここでまとめるのは断念します… ただ、強く感じたのは、オコンクウォ、ウムオフィアの人びと、地方長官、キリスト教徒、改宗者…それぞれにそれぞれの信仰心が確かにあったということ。そして、その人が何を信じるかは、他者が意見できるものでは決してないということ。 その土地に根付いた神々を「石ころ」呼ばわりしてはいけないということ。
「やつは愚かだ、とわれわれが言うのは、われわれのやり方を知らんからだ。おそらく、やつはわれわれを愚かだ、と言うだろう。われわれがやつのやり方を知らんからだ。」(285頁)
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次回10月は、自由紹介型品の(作品の縛りあり)となります。
そして当会初の試み、青空読書会! 外で過ごすのが気持ちよくなる季節かなと、思いきって公園で開催することにしました。 みなさんのお好きな本の話が聞けるのを楽しみにしています♪
今回ご参加くださったみなさま、ありがとうございました!